目次
1.はじめに~組織におけるセーフティエンゲージメントの重要性
近年、企業や組織において「セーフティエンゲージメント(Safety Engagement)」──すなわち、組織の安全性に特化して構築される従業員の主体的関与と心理的安全性──が、事故予防や労働環境の持続可能性、さらには組織全体のパフォーマンス向上において中核的要素として注目されている。従来、安全文化(safety culture)や安全風土(safety climate)といった枠組みは、組織の安全を捉える主要な概念として発展してきたが、これらは主として組織全体の価値観や雰囲気を測定する「状態的側面」に焦点を当ててきたに過ぎない。これに対して、セーフティエンゲージメントは従業員一人ひとりがいかに安全に主体的に関与し、認知・感情・行動を通じて組織の安全文化を具体的に実践・深化させるかという「動的プロセス」に着目する点に独自性を有している。
この概念は、単に規則を遵守する受動的な態度ではなく、潜在的な危険に自ら気づき、同僚と共有し、改善策を提案し実行するという能動的行為を含むものである。すなわち、セーフティエンゲージメントは「安全を与えられるもの」としてではなく、「安全を自ら育て、守り、拡張していく主体的活動」として位置づけられるべきである。
さらに、現代の労働環境はグローバル化、技術革新、人材の多様化といった変化のただ中にあり、安全に関するリスクは従来以上に複雑化・動態化している。そのため、組織は単なる規制遵守やトップダウン型の安全施策だけでは不十分であり、従業員自らが安全確保の主体となる「エンゲージメント」を育成することが不可欠である。セーフティエンゲージメントの確立は、ヒューマンエラーの削減やインシデントの予防だけでなく、心理的安全性を伴う協働の促進や学習する組織の構築にも直結する。
以上の背景を踏まえ、本稿ではまずセーフティエンゲージメントの概念的整理とその理論的枠組みを提示する。そのうえで、先行研究に基づきその効果や構成要素を明らかにし、さらに促進要因と組織的介入方策を論じる。最後に、現状における課題と今後の研究・実務への展望を示すことで、セーフティエンゲージメント研究の発展と実践的適用に資することを目的とする。
2. セーフティエンゲージメントとは何か?
2.1 定義と概念の整理
「セーフティエンゲージメント(Safety Engagement)」とは、文字どおり「安全への主体的関与」を意味する概念であり、従業員が組織における安全文化や安全施策に積極的に参加し、自らの役割と責任を自覚したうえで主体的に行動する状態を指す。ここでいう主体的関与とは、単なる規則遵守や受動的な安全意識にとどまらず、潜在的なリスクを自ら認知し、改善提案や報告を行い、さらに同僚や上司と協働して安全を強化しようとする積極的行為を包含する。
従来、安全研究分野においては「安全文化(safety culture)」や「安全風土(safety climate)」が多く議論されてきた。安全文化は、組織全体に共有される価値観や信念の集合体として捉えられ、安全に対する「組織の深層的態度」を示す。一方、安全風土は、従業員が日常的に知覚する安全への姿勢や雰囲気を指し、文化の一部を表層的に反映する概念である。しかし、これらはいずれも組織や集団の「状態」を表すことに重点が置かれており、個々の従業員がどのように関与し、どのような態度や感情をもって安全行動を実践しているかという「動的なプロセス」については十分に捉えきれていない。
セーフティエンゲージメントは、このギャップを埋める概念として位置づけられる。それは従業員が安全に対して 「どのように考え(認知)、どのように感じ(感情)、どのように行動し(行動)、そして誰とどのように関わるか(関係性)」 を焦点化し、組織の安全マネジメントにおける能動的かつ双方向的な関わりを強調する点に特徴がある。したがって、セーフティエンゲージメントは組織の制度や文化と個人の態度や行動が相互作用する領域に存在し、両者を接続する橋渡しの役割を果たす概念であるといえる。
2.2 構成要素の分類
セーフティエンゲージメントは多次元的な構造を有しており、近年のテキストマイニング研究(MDPI, 2022)では、その要因は大きく「認知的(cognitive)」「感情的(emotional)」「行動的(behavioral)」「関係性(relational)」の4つのカテゴリーに分類されることが示されている。
認知的要素(Cognitive Engagement)
従業員が安全に関する情報をどの程度理解し、状況認識を持っているかを示す次元である。具体的には、安全規則・マニュアルの理解度、リスクアセスメントの活用、潜在的危険要因の把握などが含まれる。認知的要素は、従業員が「何を知っているか」「どのように理解しているか」を測る基盤であり、行動や感情の前提条件となる。感情的要素(Emotional Engagement)
従業員が安全に対してどのような感情的つながりを持つかを示す。ここには、安全に関与する誇りや使命感、安全意識に基づく共感、さらには事故やインシデントに対する恐怖や不安も含まれる。感情的要素は、安全文化を「内面化」させる役割を果たし、単なる規則遵守を超えた持続的な行動を支える心理的基盤となる。行動的要素(Behavioral Engagement)
安全に関する実際の行動を反映する次元であり、危険の報告、仲間への声かけ、安全会議への積極的参加、安全手順の遵守と改善提案などが含まれる。行動的要素はエンゲージメントの「可視化された表現」であり、組織全体の安全パフォーマンスに直接的に寄与する。関係性要素(Relational Engagement)
組織内の他者との協働や信頼関係に基づく安全への関与を意味する。これは、上司からのフィードバックや同僚間のサポート、心理的安全性を前提とした自由な意見交換、チームワークの質などに反映される。関係性要素は、個人の安全行動を孤立的なものにせず、組織全体の協働的学習や「安全ネットワーク」の形成を促進する。
さらに、これらの要素は 「個人レベル」 と 「組織レベル」 の二重構造として捉えることが可能である。個人レベルでは、従業員一人ひとりの認知・感情・行動・関係性が焦点となり、組織レベルでは、制度設計、リーダーシップのあり方、組織文化の醸成といった要素がセーフティエンゲージメントに影響を与える。したがって、セーフティエンゲージメントを強化するには、個人の心理的・行動的介入と組織的施策の双方をバランスよく整備する必要がある。
3. セーフティエンゲージメントの効果:安全文化・パフォーマンスとの関係
3.1 安全文化・安全パフォーマンスとの相関
組織の安全文化と従業員のセーフティエンゲージメントとの間には、強固かつ持続的な関連が存在する。安全文化が成熟している組織ほど、従業員は安全に対して高い主体的関与を示し、その結果として安全パフォーマンスも向上する傾向が確認されている。安全文化は、規則や制度といった形式的側面だけでなく、価値観・規範・信念といった非形式的側面をも内包しており、これが従業員の行動や意思決定に深く影響する。すなわち、組織が安全を最優先とする価値観を共有していれば、従業員は自らの役割を超えて積極的にリスクを特定し、事故防止に寄与する行動を選択するようになる。
実証的な研究として、エチオピアの製造企業を対象とした調査では、「安全文化」および「安全風土」が安全パフォーマンスに与える影響に対し、従業員エンゲージメントが媒介変数として機能することが明らかにされている。この結果は、組織の安全文化が直接的に成果を生み出すのではなく、従業員が主体的に関与することを通じて安全パフォーマンスが高められることを示しており、セーフティエンゲージメントの重要性を裏づけている。
3.2 安全文化からパフォーマンスへのメカニズム:心理的安全性とSMS(安全管理システム)の仲介
安全文化が安全パフォーマンスに与える影響は、単純な直接効果ではなく、複数の仲介要因を経由して発現することが報告されている。その代表的な媒介要因として、安全管理システム(Safety Management System:SMS)が挙げられる。SMSは、リスクアセスメント、事故・インシデント報告、教育訓練、フィードバックメカニズムといった制度的枠組みを通じて、安全文化を行動レベルへと翻訳する役割を果たす。
研究によれば、安全文化が強い組織では、SMSの運用がより効果的に機能し、組織全体の安全パフォーマンスを高めるという段階的モデルが成立する。すなわち、「安全文化 → SMS → 安全パフォーマンス」というプロセスを経ることで、抽象的な価値観が具体的な成果へと結びつく。また、このプロセスにおいては、従業員の心理的安全性も重要な役割を担う。心理的安全性が担保されることで、従業員はインシデントやリスクを隠さず報告でき、SMSが実効性を持って機能する。したがって、安全文化は直接的にパフォーマンスを改善するだけでなく、SMSおよび心理的安全性を介した間接的効果を通じても成果をもたらすと解釈できる。
3.3 医療現場における従業員エンゲージメントと患者安全
医療分野においても、従業員エンゲージメントと安全成果との関連は数多く検証されている。研究レビューによれば、従業員エンゲージメントと患者安全との間には「正の強い関係」が存在し、エンゲージメントが高い職場ほど、医療エラーの発生率が低減し、有害事象の件数も減少する傾向が確認されている。さらに、エンゲージメントが高い従業員は、患者への説明責任やチームワークに積極的であり、患者安全文化の醸成に直接寄与する。
このような知見は、医療現場における安全向上を「制度設計」だけに依存するのではなく、従業員の主体的関与を強化することで達成できることを示している。すなわち、患者安全を向上させるためには、医療従事者が安全文化に対して「自ら関わりたい」と思える環境づくりが不可欠であり、セーフティエンゲージメントの概念は医療安全の新たな基盤となりうる。
3.4 安全文化とエンゲージメントの同時的強化
興味深いことに、安全文化と従業員エンゲージメントの関係は一方向的ではなく、双方向的かつ循環的である可能性が示唆されている。入院病棟を対象とした縦断的研究では、安全文化の強化が従業員エンゲージメントを高める一方、エンゲージメントが高まることで再び安全文化が強化されるという、相互促進的な関係が確認されている。この結果は、安全文化とエンゲージメントが「共進化」する構造を持つことを意味している。
すなわち、安全文化を高める施策(例:リーダーシップによる安全優先の発信、報告制度の透明性向上)は従業員の主体的関与を刺激し、その高まったエンゲージメントが再び組織全体の安全文化を支える。このような循環的メカニズムを理解することは、安全マネジメントの実務においても重要であり、単発的な施策ではなく、文化とエンゲージメントを同時に強化する包括的アプローチが求められるといえる。
4. 安全エンゲージメントの促進要因~心理的・組織的視点から
4.1 心理的安全性の確保
心理的安全性(Psychological Safety)とは、従業員が自らの失敗や懸念を率直に表明し、また改善提案や問題提起を恐れずに発言できる職場環境を指す概念である。この心理的安全性が担保されている環境では、従業員は否定的評価や懲罰を恐れずにリスクを共有できるため、潜在的な問題が早期に顕在化し、事故や災害の未然防止に直結する。すなわち、心理的安全性はセーフティエンゲージメントの基盤的条件であり、組織における安全文化の発展に不可欠な要素である。
実証研究においても、心理的安全性と従業員エンゲージメントの間には強い関連が報告されている。例えば、建設業や製造業の事例研究では、心理的安全性が確保された職場ほど従業員の安全行動が促進され、組織の安全文化の深化と事故抑止に寄与していることが確認されている。さらに医療現場においても、心理的安全性が存在する組織では、医療従事者がエラーやインシデントを率直に報告し、改善活動が活性化することが明らかにされている。心理的安全性は単なる「安心感」ではなく、組織的学習と安全マネジメントを支える基盤的制度であり、セーフティエンゲージメントを強化する戦略的要素として位置づけられるべきである。
4.2 感情的エンゲージメントの役割
セーフティエンゲージメントにおいては、認知的理解や行動的遵守だけでなく、従業員が安全文化に対して「感情的に共鳴するか否か」が極めて重要である。NSC(National Safety Council)の報告によれば、従業員が組織の安全文化に一体感を持ち、感情的に価値を共有している場合、その文化は形式的な規則を超えて内面化され、日常的な行動の規範として定着する。この感情的エンゲージメントは、従業員に「安全は組織から与えられるものではなく、自らが守り育てるものである」という主体的態度を醸成させる点で重要である。
具体的には、事故を未然に防止した成功体験の共有、組織として安全を最優先に扱う姿勢の明示、そして従業員の安全行動を称賛する仕組みが感情的エンゲージメントを高める実践的施策となる。感情が伴うことで、安全文化は単なる制度やマニュアルに留まらず、従業員の価値観として定着し、持続的な安全行動を支える動機づけの源泉となる。
4.3 管理職の関与と認識の共有
安全文化の醸成において、経営層や管理職の関与は決定的な意味を持つ。トップマネジメントが安全を最優先事項として掲げ、明確なメッセージを発信し続けることは、組織全体の安全価値観を方向づける。また、現場管理者が従業員に対して安全を支持する態度を示すことで、従業員は安全行動を奨励されていると実感し、積極的にエンゲージメントを高める。
さらに、懲罰を伴わない問題報告制度の整備も不可欠である。従業員がリスクやエラーを安心して報告できる環境があって初めて、潜在的危険の早期発見と改善が可能になる。このような「報告に対して制裁しない文化(Just Culture)」の存在が、従業員の信頼を高め、安全文化を強化することにつながる。管理職自身がエンゲージメントを体現することで、従業員にとって安全は「組織からの命令」ではなく「共通の使命」として認識されるのである。
4.4 教育・認知・事例活用による行動改革
セーフティエンゲージメントを定着させるためには、継続的な教育と認知向上の仕組みが不可欠である。従業員が安全行動の意義を理解し、リスクを主体的に特定・回避できるようにするためには、体系的な安全トレーニングや啓発教材の導入が必要となる。これに加えて、過去の事故やインシデントの事例を分析し、その教訓を共有することは、抽象的な安全理念を具体的な行動規範に落とし込むうえで効果的である。
また、教育施策を単なる一方向的伝達にとどめず、従業員からのフィードバックを組み込むことで、双方向的な学習サイクルを構築できる。この「フィードバックループ」により、従業員は自らの意見が組織改善に反映されることを実感し、さらなる主体的関与へとつながる。さらに、実際の安全改善に従業員の声を活かすことは、認知的理解を感情的共鳴へ、そして具体的行動へと転換させるプロセスを促進する。
このように、教育・認知・事例活用は、従業員の意識を高めるだけでなく、セーフティエンゲージメントを文化として組織に根付かせるための中核的戦略であるといえる。
5. セーフティエンゲージメント戦略~実践に向けたガイドライン
5.1 意識と行動をつなぐ設計
セーフティエンゲージメントを実効的に高めるためには、従業員の認知・感情・行動・関係性という多面的要素を意図的に結びつける介入設計が求められる。すなわち、「理解する」「感じる」「実践する」「共有する」という連続的なプロセスを構築しなければならない。
認知的介入:従業員が安全の意義や目的を明確に理解することは、行動の前提条件である。安全規則の遵守を単なる義務としてではなく、組織の価値体系の一部として教育することで、全員が共通の言語と視点を持つことが可能となる。具体的には、安全に関する基礎教育やシナリオ・ケーススタディの活用、リスク認識トレーニングが挙げられる。これにより、従業員は「なぜ安全が重要なのか」を内在化し、主体的な行動へとつなげやすくなる。
感情的介入:安全に関連する実際のエピソードや成功体験を共有することは、従業員の感情的共鳴を引き出し、安全文化の内面化を促す。例えば、事故を未然に防いだ従業員の事例を共有し、その行動が仲間や組織全体に与えた肯定的影響を称えることは、感情的動機づけを強化する。また、事故やヒヤリハット体験を「教訓」としてチーム全体で共有することも、恐怖や不安を前向きな学習機会へと転換する契機となる。
行動的介入:認知と感情を行動に転換するには、日常的な実践を制度的に支援する必要がある。安全行動チェックリストの導入や、定期的な安全訓練、リハーサルの実施は、安全行動を習慣化しやすくする。さらに、行動を評価する仕組みを導入することで、従業員は「安全に行動すること」が自然な職務行動として定着する。
関係性強化:安全文化は個人の孤立した行動によっては持続しない。チーム内における安全に関する対話の促進、フィードバックの定着、そして互いの安全行動を称賛する仕組みを整えることで、従業員は「仲間と共に安全を守る」という一体感を獲得する。この関係性の強化は、エンゲージメントを個人のレベルから集団のレベルへと拡張させる決定的要因である。
以上の4つの介入を相互補完的に設計することで、セーフティエンゲージメントは単発的な施策にとどまらず、組織文化として持続的に根付くことが可能となる。
5.2 組織レベルの整備施策
従業員の意識と行動を支えるためには、組織レベルでの制度的枠組みとリーダーシップが不可欠である。組織はセーフティエンゲージメントを単なる個人依存の要素として捉えるのではなく、構造的に強化する施策を整備する必要がある。
リーダーシップの明示:トップマネジメントが安全を組織価値の中核に据え、自ら率先して安全行動を実践することが不可欠である。リーダーが「安全最優先」の姿勢を明確に示すことで、従業員は安全を軽視できない雰囲気を共有し、組織全体に一貫性のあるメッセージが浸透する。リーダーシップは単なる方針提示ではなく、具体的な行動の模範を通じて体現されるべきである。
報告制度の透明化:事故やインシデント、潜在的危険に関する報告を促進し、非懲罰的な対応を徹底することは、従業員の信頼を確立する基盤である。報告が懲罰につながる環境では情報が隠蔽され、組織学習が阻害される。したがって、報告を称賛する文化、ならびに「エラーを責めず、学習の機会とする」という姿勢を制度として保障することが求められる。
安全マネジメントシステム(SMS)の導入:SMSは、安全文化を行動レベルへ翻訳し、具体的施策として定着させる枠組みである。リスクアセスメント、教育・訓練、監査・レビュー、継続的改善といった要素を体系的に包含し、文化→制度→行動という流れを保証する。SMSは単なる規制遵守のための形式ではなく、セーフティエンゲージメントを実効的に強化する「仕組み化された文化変革の手段」として位置づけられる。
心理的安全性のモニタリング:心理的安全性は固定的に維持されるものではなく、職場環境の変化や人間関係の影響を受けやすい。したがって、定期的なサーベイやフォーカスグループを通じて職場の雰囲気を把握し、改善サイクルを回すことが必要である。この継続的モニタリングは、単に現状を測定するだけでなく、従業員に「組織が自分たちの声を重視している」という実感を与え、さらなるエンゲージメント強化につながる。
総じて、組織レベルの施策は、従業員の認知・感情・行動を支える制度的基盤を提供し、個人の主体的な関与を組織文化の一部として定着させる役割を担う。個人レベルの介入と組織レベルの施策が統合されることで、セーフティエンゲージメントは持続可能かつ自己強化的なプロセスとして発展していくのである。
6.セーフティエンゲージメントを高める
セーフティエンゲージメントは一度醸成されれば固定的に維持されるものではなく、組織環境や経営方針、人員構成の変化によって容易に変動する。したがって、継続的かつ多層的な戦略により意図的に強化していく必要がある。本節では、その具体的方策を心理的要因、リーダーシップ要因、制度的要因の三つの観点から論じる。
6.1 心理的安全性の確立と従業員主体性
心理的安全性は、セーフティエンゲージメントを支える基盤である。従業員が懲罰を恐れずに問題を共有できる職場環境が存在すれば、潜在的リスクは早期に顕在化し、学習と改善が促進される。また、心理的安全性が確保されることで、従業員は「与えられた安全」ではなく「自ら育てる安全」という主体性を発揮できる。この主体性の確立こそ、持続可能なエンゲージメントの条件である。
6.2 リーダーシップと模範行動
リーダーシップはセーフティエンゲージメント強化の決定的要素である。トップマネジメントは安全を組織の価値観の中核に据え、現場管理職は日常業務の中でその価値を体現しなければならない。具体的には、経営層による安全方針の発信、安全行動を実践するリーダーの姿勢、従業員の声を尊重する管理者の対応が、従業員の信頼と主体的関与を高める。また、模範行動の存在は「言葉だけの安全」ではなく「行動で示す安全」として文化を強化する。
6.3 成功体験の共有と感情的共鳴
セーフティエンゲージメントは感情的要素によって強化される。事故を未然に防いだ事例や改善提案が組織に採用された事例を共有することは、従業員に「自分の行動が組織に貢献する」という自覚を与える。さらに、組織全体で称賛する仕組みを整えることは感情的共鳴を生み、従業員が安全文化に誇りを持つ契機となる。この感情的共鳴が、持続的な行動変容を支える心理的エネルギーとなる。
6.4 教育・訓練と学習する組織の形成
教育と訓練は、セーフティエンゲージメントを「一過性の意識」から「持続的な行動」へと変換するための重要な施策である。体系的な安全教育、シナリオベースの訓練、インシデント事例の共有は、従業員の認知的理解を深めるだけでなく、経験知を組織知へと昇華させる役割を持つ。また、フィードバックを循環させる仕組みを導入することで、組織は「学習する組織」として進化し、セーフティエンゲージメントが文化として根付く。
7.セーフティエンゲージメントのサーベイ
セーフティエンゲージメントを組織的に把握し改善へと結びつけるためには、定期的かつ体系的なサーベイが不可欠である。サーベイは従業員の意識・態度・行動を多次元的に測定することで、組織の強みと課題を可視化する。以下では、サーベイ設計の要点を多面的に整理する。
7.1 多次元的測定と指標設計
セーフティエンゲージメントは単一の尺度で捉えられるものではない。認知的側面(規則理解、リスク認識)、感情的側面(誇り、共感、安心感)、行動的側面(報告・提案の頻度、訓練参加度)、関係性側面(チームワーク、信頼感)を含めた包括的な尺度設計が必要である。これにより、表層的な意識調査に留まらず、行動や関係性の質的変容を測定できる。
7.2 回答の信頼性と実効性の確保
サーベイ疲れによる回答率低下は大きな課題である。そのため、調査項目は冗長性を排し、明確かつ具体的に設計することが求められる。また、匿名性を確保することで、従業員は率直に意見を表明できる。信頼性の高いデータ収集は、改善施策の根拠を与えるだけでなく、従業員に「自分たちの声が反映される」という信頼を構築する契機にもなる。
7.3 量的・質的アプローチの統合
定量的な質問紙によるスコアリングとともに、自由記述やインタビューなどの質的調査を組み合わせることで、数値だけでは把握しきれない「職場の語り」や「経験の共有」を補完できる。例えば、Likert尺度で「安全に関して自由に意見が言える」と回答した従業員の自由記述を分析することで、心理的安全の阻害要因を具体的に把握できる。
7.4 ベンチマーキングと比較分析
自組織内での時系列比較だけでなく、他部門や他組織との比較(ベンチマーキング)を行うことは、自らの安全風土やエンゲージメントの相対的位置づけを把握するうえで重要である。業界標準やベストプラクティスとの比較により、自組織の強みと弱みが明確化され、改善の優先順位を設定しやすくなる。
7.5 フィードバックの循環と改善施策
サーベイの結果は単に収集・分析して終わるのではなく、従業員に対してフィードバックされ、具体的な改善施策に結びつけられる必要がある。結果が現場に還元されない場合、従業員は「調査は形だけ」と認識し、回答意欲を低下させる恐れがある。逆に、改善につながった実績を共有することで、従業員は「自分たちの声が組織を変えている」と実感し、さらなるエンゲージメント向上につながる。
7.6 高度分析手法の活用
近年では、サーベイ結果を構造方程式モデリング(SEM)や項目反応理論(IRT)で分析し、因果関係や潜在構造を可視化する試みが進んでいる。これにより、セーフティエンゲージメントが安全文化や安全パフォーマンスとどのように関連しているかを精緻に検証することが可能となる。特に、因果関係を明らかにすることで、どの要素への介入が最も効果的であるかを実証的に示すことができる。
8. 課題と今後の展望
8.1 測定の難しさと定義の曖昧性
「セーフティエンゲージメント」は認知・感情・行動・関係性といった多次元的側面を内包し、かつ組織文化や業務環境に強く依存する文脈的概念である。そのため、測定指標や評価ツールは未だ標準化されておらず、研究間で比較可能なデータを得ることが困難であるという問題が存在する。既存の安全文化評価ツール(例:HSOPS、SAQ など)においても、因子構造の多義性や、回答者の主観的解釈の差異が問題視されている。さらに、調査の繰り返し実施に伴う「サーベイ疲れ(survey fatigue)」によって回答率が低下し、データの代表性や信頼性を損なうリスクも指摘されている (pmc.ncbi.nlm.nih.gov)。
このような課題は、セーフティエンゲージメントを測定する際に特に顕著である。なぜなら、この概念は定量的尺度だけで捉えることが難しく、従業員の語りや行動観察といった質的データとの組み合わせが必要とされるためである。したがって、今後は量的・質的アプローチを統合し、学際的に妥当性を検証できる新しい測定モデルの開発が求められる。
8.2 因果関係の明示と実証研究の不足
現行の多くの研究は、セーフティエンゲージメントと安全文化あるいは安全パフォーマンスとの間に正の相関関係が存在することを報告している。しかし、エンゲージメントが安全文化を高めるのか、それとも強固な安全文化がエンゲージメントを促進するのか、その因果の方向性については未だ明確な結論に至っていない。相関関係の提示に留まる研究が多いため、因果推論の観点からは限界があるといえる。
因果関係を明示するためには、①特定の介入(例:安全教育プログラムや報告制度改革)を導入し、その前後でエンゲージメントおよび安全成果の変化を追跡する介入研究、②同一集団を長期的に調査し、時間軸に沿った因果構造を検証する縦断的研究、③SEM(構造方程式モデリング)やシステムダイナミクスを活用したメカニズムのモデル化などが不可欠である。特に、心理的安全性やリーダーシップが媒介変数としてどのように機能するのかを実証的に明らかにすることは、理論的貢献と実務的応用の双方に資するだろう (pmc.ncbi.nlm.nih.gov, journals.lww.com)。
8.3 多様な現場・文化への適応
現行研究の多くは医療や製造業といった高リスク産業を中心に展開されており、IT産業やサービス業、中小企業、教育機関など、異なる業種・規模の組織におけるセーフティエンゲージメントの適用は十分に検証されていない。また、組織文化や国民性といった文化的背景が、従業員のエンゲージメントの表出様式に大きな影響を及ぼす可能性がある。例えば、階層意識が強い文化では上司への「言いにくさ」が心理的安全性を阻害する一方、水平的な組織文化では対話や報告がより自然に行われると考えられる。
したがって、今後の研究では多様な産業領域や文化圏を対象に調査を拡張し、セーフティエンゲージメントの普遍的側面と文化依存的側面を峻別することが重要である。これにより、各業界や国・地域に最適化された実践的介入モデルを設計することが可能となる。

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