目次
はじめに
医療の現場において「安全」は自明のものではなく、日々の努力と仕組みによって支えられている。わずかな判断の遅れや情報の齟齬が、患者の生命を大きく左右することは決して珍しくない。厚生労働省の統計によれば、日本国内においても毎年数多くの医療事故やインシデントが報告されており、その背景には単なる個人の過誤にとどまらず、システムエラーや組織内のコミュニケーション不足といった「組織的要因」が深く関与していることが明らかになっている。
このような状況を踏まえると、医療安全を高めるためには、個人の技能向上やマニュアル整備に加えて、組織全体の行動特性や人間関係のダイナミクスを理解することが不可欠である。そこで注目されるのが「組織行動(Organizational Behavior)」の視点である。組織行動学は、人間の行動や集団内の相互作用を分析し、それが組織全体の成果や文化、さらには安全にどのように結び付くのかを解明する学問領域である。
医療現場は、医師・看護師・薬剤師・事務職員など多様な専門職が協働する複雑な環境であり、個人の行動だけでなく、チームワークやリーダーシップ、意思疎通の質が患者安全に直結する。そのため、組織行動の知見は単なる理論にとどまらず、医療安全を根底から支える「実践の指針」となり得る。
本稿では、まず組織行動の基本概念を整理したうえで、それが医療安全とどのように関連し得るのかを検討する。さらに、医療現場に応用可能な改善策を提示し、組織行動の視点から安全文化をいかに醸成していくかを考察する。
組織行動の基本概念
組織行動学(Organizational Behavior: OB)は、心理学や社会学、経営学などの知見を取り込みながら、「人が組織の中でどのように行動し、その行動が成果や事故にどのようにつながるのか」を体系的に明らかにする学問である。医療安全を考えるうえでも、この視点は欠かせない。特に医療現場は多職種が連携して業務を行うため、組織行動の要素がうまく機能しないと、安全確保そのものが困難になる。代表的な領域は以下の通りである。
モチベーション:職員がどのように仕事への意欲を高め、持続できるのか。医療安全教育やフィードバックの仕組みはモチベーションに直結する。
意思決定:個人やチームの判断がどのように形成され、リスク評価や対応策の選択にどう影響するのか。誤った意思決定は重大な事故を招きかねない。
リーダーシップ:上司や管理者の行動や姿勢が組織の方向性を規定する。特に安全文化を醸成するうえで、リーダーの役割は極めて重要である。
チームワーク:多職種が協力し、役割を分担することが患者安全の基盤となる。協働の欠如は医療過誤のリスクを高める。
コミュニケーション:情報の伝達方法やその障害は、医療現場において最も頻繁に事故の原因となる要素のひとつである。
組織文化:組織に根付いた価値観や規範が、日常の安全行動を方向づける。安全文化の成熟度は事故発生率に直結する。
パワーと影響力:職位や権限が意思疎通や意思決定に与える作用を理解することは、現場での心理的安全性や「言える文化」の構築に不可欠である。
これらの要素は相互に関連し合い、組織のパフォーマンスだけでなく、患者安全そのものを左右する。したがって、医療安全を実現するためには、組織行動を単なる理論ではなく「現場改善の実践知」として捉えることが求められる。

医療安全と組織行動の関係
医療安全とは「医療過誤や不要な有害事象を未然に防ぐための体系的な取り組み」を意味する。投薬ミス、手術時の誤り、院内感染の蔓延、患者取り違えといったリスクは、個人の注意力や経験だけに依存するのではなく、むしろ組織全体の仕組みや文化に大きく左右される。ここで重要となるのが、組織行動(Organizational Behavior)の視点である。
組織行動学が扱う要素は、医療現場における事故防止や安全文化の醸成に直結している。特に、リーダーシップやチームワーク、コミュニケーション、組織文化、心理的安全性は、いずれも患者安全を高める上で基盤的な役割を果たす。以下の表に示すように、各要素は医療安全へ直接的な影響を及ぼし、具体的な改善策の実行によってリスク低減が期待できる。
表:組織行動と医療安全の関係
| 要素 | 医療安全への影響 | 改善のための具体策 |
|---|---|---|
| リーダーシップ | 組織の安全文化の方向性を決定し、エラー報告を促進または抑制する。 | 安全リーダーシップ研修の実施、現場ラウンドでの対話による安全意識の共有 |
| チームワーク | 職種間の協力体制が事故防止に直結し、不十分であればリスクが増大する。 | チームビルディング研修、シミュレーショントレーニングによる連携強化 |
| コミュニケーション | 情報共有不足や伝達ミスが重大事故の引き金となる。 | SBARの導入、ブリーフィング/デブリーフィングの習慣化 |
| 組織文化 | エラー報告の有無や質に直結し、「隠す文化」が根付くと安全確保が困難になる。 | Just Culture(公正文化)の導入、失敗から学ぶ仕組みの整備 |
| 心理的安全性 | 職員が意見を口にできない状況はリスク隠蔽や学習機会の喪失につながる。 | フラットな職場環境の整備、建設的なフィードバック訓練による発言促進 |
このように、「人がどう動くか」「組織としてどう機能するか」という組織行動の研究は、そのまま医療安全対策に直結している。組織行動の要素を体系的に理解し、現場に適用することは、単なる理論ではなく実効性のあるリスクマネジメントであり、医療機関が持続的に安全を確保するための基盤である。

心理的安全性と医療現場
近年、医療安全の分野で特に注目されている概念が「心理的安全性(Psychological Safety)」である。心理的安全性とは、チームの中で「自分の意見や疑問、懸念を述べても罰せられたり否定されたりしない」と感じられる状態を指す。この環境が整っていると、スタッフは自らのエラーや不安、リスクの兆候を率直に共有することが可能になる。
ハーバード・ビジネススクールのエイミー・エドモンドソン(Edmondson, 1999)の研究によれば、心理的安全性が高いチームでは学習行動が活発化し、メンバー同士が積極的に知識や経験を交換する。その結果として、事故防止や業務改善が促進され、組織全体のパフォーマンスが向上することが明らかにされている。
医療現場においても同様の傾向が観察されている。発言が抑制される文化では、スタッフがリスクや不安を口にできず、問題が水面下に潜在化する。その結果、インシデントや重大事故の発生確率が高まる。一方で、心理的安全性の高い職場では、若手スタッフや非正規職員であっても自由に意見を述べられるため、リスクが早期に顕在化し、予防的な対応が可能になる。
つまり、心理的安全性は単なる「働きやすさ」の概念ではなく、医療安全の根幹に関わる重要な要素である。安全文化を醸成するためには、リーダーが率先して意見を歓迎する姿勢を示し、組織全体で「言える文化」を育むことが不可欠である。

事例から学ぶ組織行動の課題
組織行動の欠如は、医療現場において深刻な事故や不祥事を引き起こす要因となる。以下では、国内外の事例や他産業の取り組みを通じて、組織行動が果たす役割と課題を整理する。
手術部位取り違えの事例(米国)
米国で発生した手術部位取り違え事故は、単なるヒューマンエラーではなく、チェックリスト未使用、チーム内のコミュニケーション不足、リーダーシップ不在が重なって起きたものである。これは典型的に「組織行動の欠如」が招いた事故であり、術前確認や声かけの仕組みを組織として徹底していれば防げた可能性が高い。
国内の感染管理不備(日本)
日本の病院においても、感染対策が十分に機能せず院内感染が拡大した事例がある。その背景には、報告体制の不備、部署間での情報共有の遅延、責任の所在が曖昧な組織構造といった組織的要因が存在した。これは、現場職員の努力だけでは解決できず、組織全体のシステム改善が求められる典型例である。
他産業からの知見
医療と同様に「安全」が最優先される高リスク産業では、組織行動を通じて安全文化を醸成し、事故防止を実現してきた。
航空業界:CRM(Crew Resource Management)によって上下関係を超えた発言文化を醸成し、ヒューマンエラーの早期発見と事故率低下を実現した。
鉄道業界:ヒューマンエラー分析を基盤に、ダブルチェックや自動化を推進し、リスク低減に成功している。
製造業:トヨタ生産方式に代表される「カイゼン活動」は、現場職員による小さな改善を積み重ねる仕組みを通じ、安全性と効率性の両立を可能にした。
これらの実践は、いずれも組織行動の応用であり、医療安全においても取り入れることが可能である。特に、チェックリスト活用、情報共有の強化、心理的安全性を高めるリーダーシップは、医療現場においても直ちに応用できる改善策である。

今後の展望
デジタル技術の進歩は、組織行動と医療安全の結び付きをこれまで以上に強化している。とりわけAIやVR/ARといった先端技術は、従来のマニュアルや教育プログラムを補完し、より高度なリスクマネジメントを可能にしている。
AIによるエラー予測:電子カルテや看護記録などの膨大なデータをAIが分析し、ヒューマンエラーの兆候や業務負荷の偏りを早期に検出することで、事故発生前の介入が可能となる。
VR/AR教育:現実に近い状況を再現した没入型シミュレーションにより、医療チームは実践さながらのトレーニングを行える。これにより、リーダーシップやチームワーク、コミュニケーション能力の強化が期待できる。
患者参加型医療安全:患者自身が安全チェックリストや治療計画に関与する仕組みを導入することで、患者・家族と医療従事者が協働し、リスクを多角的に減らすことができる。
しかし、技術の導入だけでは十分ではない。AIやVRを活用しても、現場に「発言できる文化」が根付いていなければ、エラー情報は共有されず、潜在的リスクは見逃される可能性がある。したがって、組織文化の醸成、心理的安全性の確保、リーダーシップによる支援といった組織行動の基盤と組み合わせることで初めて、技術革新が実効性を発揮する。
今後の医療安全の展望は、「テクノロジー × 組織行動」という融合にある。デジタル技術を導入しつつ、人と組織の行動特性を理解し改善することで、医療現場は持続的かつ高度な安全性を実現できるだろう。
まとめ
組織行動は、医療安全を理解し、実効性のある改善を進めるために不可欠な視点である。リーダーシップ、チームワーク、コミュニケーション、心理的安全性といった要素は、いずれも医療現場の安全文化を醸成する基盤を構成している。これらの要素が有機的に結び付くことで、インシデントや医療過誤のリスクは低減し、組織全体の信頼性とパフォーマンスが向上する。
さらに、航空業界や製造業など他産業の知見から学び、CRMやカイゼンといった実践を取り入れることは、医療安全を強化する上で有益である。また、AIによるエラー予測やVR/ARを活用したシミュレーショントレーニング、患者参加型の安全対策といったデジタル技術の進歩は、新たな医療安全の可能性を切り開いている。
しかし、最終的に医療安全を支えるのは「人と組織の行動」である。どれほど技術が進化しても、心理的安全性の欠如やコミュニケーション不足があれば、リスクは水面下に潜み続ける。したがって、「組織行動 × 技術 × 安全文化」という三位一体のアプローチを採用することこそ、これからの医療安全に求められる持続可能な道である。
参考文献
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Sexton, J. B., Helmreich, R. L., et al. (2006). The Safety Attitudes Questionnaire: psychometric properties. BMC Health Services Research, 6, 44.
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Sutcliffe, K. M., & Vogus, T. J. (2003). Organizing for Resilience. Positive Organizational Scholarship.
厚生労働省. (2023). 医療事故情報収集等事業 第20回報告書.













