エンゲージメントと医療安全

はじめに

医療現場において、医療安全の確保は最重要課題の一つである。医療事故やインシデントは患者の生命に直接的な影響を及ぼすだけでなく、医療従事者の精神的負担や職業的ストレス、さらには組織全体の信頼低下を招く。厚生労働省の「医療事故情報収集等事業」や「医療事故調査制度」によれば、国内の医療機関から報告されるインシデント件数は年々増加しており、医療現場の安全性確保に対する社会的期待は一層高まっている【厚生労働省, 2022】。そのため、エラーを未然に防ぎ、安全で質の高い医療を提供するための組織的かつ持続的な仕組みづくりが急務となっている。

こうした中で近年注目されているのが、「エンゲージメント(Engagement)」の概念である。エンゲージメントとは、従業員が自らの仕事に熱意を持ち、主体的に関与し、組織の目標に共感して取り組む姿勢を意味する。これは単なる「職務満足度」や「モチベーション」とは異なり、積極的かつ能動的に組織に貢献する心理的状態を表す。産業心理学や組織行動学の分野でSchaufeliやBakkerらによって体系化されて以来、製造業やサービス業をはじめとする幅広い分野で研究が進んできた。

医療分野においても、「医療従事者のエンゲージメント」が患者安全に直結することが明らかになりつつある。たとえば、看護師や医師がエンゲージメント高く業務に取り組むことで、インシデントの早期発見・チーム内の円滑な情報共有・報告文化の醸成が促進され、重大な医療事故の防止につながることが報告されている【Shanafelt et al., 2017】。逆に、エンゲージメントが低下すると、注意力の欠如やコミュニケーション不足が生じ、医療安全に負の影響を及ぼす可能性が高い。

本記事では、エンゲージメントの定義や構成要素を整理した上で、医療安全との関連性を理論的・実証的に検討する。また、国内外の研究事例を参照しながら、現場での実践方法や課題を明らかにし、さらに今後の展望についても考察する。**「エンゲージメントを高めることが、医療安全文化を醸成する基盤となる」**という視点から、医療現場における新たな安全戦略を提示することを目的とする。

エンゲージメントとは何か

エンゲージメントの定義

エンゲージメントとは、従業員が自らの仕事や組織に対して高い熱意・没頭・活力を持ち、主体的に関与する心理的状態を指す【Schaufeli & Bakker, 2004】。この概念はオランダのユトレヒト大学を中心に研究が進められ、特に「ワーク・エンゲージメント」として国際的に定着している。

単なる職務満足度や一時的なモチベーションとは異なり、エンゲージメントは能動的かつ持続的な貢献意欲を伴う点が特徴である。従業員が組織に愛着を持ち、目標達成に向けて自律的に取り組むことで、組織全体のパフォーマンスと信頼性が高まる。

エンゲージメントの3つの構成要素

Schaufeliらはエンゲージメントを次の3つの要素に整理している。

  1. 活力(Vigor)
    高いエネルギーを持って業務に取り組み、困難に直面しても粘り強く遂行する姿勢。
    → 医療現場では、長時間勤務や突発的な急患対応においても集中力を維持しやすい。

  2. 献身(Dedication)
    仕事に誇りや意義を見出し、積極的に関わろうとする態度。
    → 「患者の安全を守る」という使命感を持つことで、報告や改善提案が自然に促される。

  3. 没頭(Absorption)
    業務に深く集中し、充実感を得る状態。
    → 手術や看護ケアの場面で「ゾーンに入った」ような集中が生じ、安全性が高まる。

これら3要素が揃うことで、従業員は組織に積極的に関与し、主体的な改善活動や安全文化の醸成に寄与する。

医療安全におけるエンゲージメントの重要性

エンゲージメントと医療事故防止

エンゲージメントの高い医療従事者は、注意深さ・責任感・協働意識が高く、エラーを早期に発見しやすい。例えば、投薬時のダブルチェックや異常値の報告など、小さな注意行動の積み重ねが重大事故を防ぐ。

逆にエンゲージメントが低い職場では「自分の仕事だけをこなす」という姿勢が強まり、リスクの見落としや情報共有不足が事故につながりやすい。これは単なる個人の態度の問題ではなく、組織全体の文化として定着する危険がある。

チーム医療と協働の質

多職種協働は現代医療の基本である。エンゲージメントが高い職場では、医師・看護師・薬剤師・臨床検査技師・リハビリ職などが職種を超えて協力し合い、診療方針の一貫性が保たれる。これにより、患者に提供される医療の質と安全性が高まる。

一方、エンゲージメントが低い組織では、各職種が自分の専門領域に閉じこもる「サイロ化」が進行する。情報断絶や誤解が発生しやすくなり、インシデントのリスクが増大する。

インシデント報告文化の強化

エンゲージメントの高い従業員は「報告は組織改善のための行動である」という意識を持ち、積極的にインシデントを共有する。重要なのは、報告が責められる行為ではなく、評価される行為であると感じられる組織文化の存在である。

さらに、報告に対して組織が迅速かつ真摯にフィードバックを行うことで、従業員は「自分の行動が組織を変えている」と実感できる。これがさらなるエンゲージメントを促し、報告文化の活性化と医療安全の向上に直結する。

エンゲージメントは、医療従事者の意欲や責任感を高めるだけでなく、医療事故の予防・多職種協働の質向上・インシデント報告の促進といった医療安全の中核要素を支える役割を担っている。したがって、医療機関がエンゲージメントを高める取り組みを行うことは、患者の安全を守る最も実践的な戦略の一つといえる。

エンゲージメントと関連する概念

エンゲージメントとバーンアウト

エンゲージメントは、燃え尽き症候群(バーンアウト)の対極に位置するとされる【Maslach & Leiter, 1997】。バーンアウトとは、情緒的消耗感・脱人格化・達成感の低下を特徴とし、特に過重労働や慢性的なストレス下にある医療従事者に多く見られる。

バーンアウトが進行した職場では、医療者は業務に対して消極的になり、インシデント報告や協働の意欲も低下する。結果として、安全文化が衰退し、事故が潜在化するリスクが高まる。

一方で、エンゲージメントの醸成はバーンアウトの予防策として有効である。職務に意義を見出し、活力や没頭を伴って業務に取り組むことで、心身の疲労が軽減され、医療者のウェルビーイング(Well-being)が向上する。実際、欧州の医療機関を対象とした調査では、エンゲージメントが高い医療従事者はバーンアウト発症率が低いことが報告されている。

エンゲージメントと心理的安全性

心理的安全性とエンゲージメントは相互補完的な関係にある。心理的安全性が担保されている職場では、従業員が積極的に関与しやすくなり、自然とエンゲージメントが高まる。たとえば、看護師が上司や医師に対して自由に意見を述べられる環境があれば、自分の役割の重要性を実感しやすくなり、業務への献身や集中度が高まる。

逆に、エンゲージメントの高い従業員が増えることで、互いに支え合い、「誰もが安心して発言できる」風土が形成される。これは心理的安全性のさらなる強化につながり、エンゲージメントと心理的安全性は正の循環を生む関係といえる。

エンゲージメント向上の具体的施策

1. リーダーシップの発揮

管理職や医師リーダーが「職員の声を聴く姿勢」を示すことで、現場のエンゲージメントは高まる。具体的には、以下のような行動が有効である。

  • 会議で若手や非医師スタッフに意見を求める

  • 報告や提案に対して「ありがとう」と感謝を伝える

  • 自らの失敗体験を共有し、「報告は責められる行為ではない」と示す

こうした小さな行動の積み重ねが、職員の主体性を引き出し、組織全体のエンゲージメントを底上げする。

2. 教育・研修の充実

安全文化研修や多職種合同トレーニングを導入することで、職員は「自分の役割が組織にどう貢献しているか」を実感できる。具体的には、次のような研修が効果的である。

  • シミュレーション訓練:緊急対応の場面を模擬し、チーム全員が役割を発揮する経験を積む

  • ケーススタディ:過去の医療事故を分析し、組織的改善策を議論する

  • リーダーシップ研修:中堅職員に「周囲のエンゲージメントを引き出す方法」を学ばせる

これにより、職員は業務の意義や自分の影響力を実感でき、仕事への献身が強化される。

3. ワークライフバランスの改善

長時間労働や人員不足は、エンゲージメント低下の最大要因である。シフト管理や休暇取得制度の整備は、従業員の心身の健康を守るだけでなく、医療安全の向上にも寄与する。

例えば、欧州の一部の病院では「勤務間インターバル制度(勤務と勤務の間に一定の休息時間を確保する仕組み)」を導入し、看護師の疲労軽減と医療エラーの減少を実現している。日本でも医師の働き方改革が進められており、勤務環境の改善とエンゲージメントの向上を同時に実現する取り組みが期待される。

4. 報告制度のフィードバック強化

インシデント報告に対して「改善につながった」と実感できるフィードバックを返すことは、職員の主体性とエンゲージメントを高める有効な手段である。

報告制度が形骸化している職場では「報告しても意味がない」という無力感が広がり、エンゲージメントが低下する。これを防ぐには、

  • 報告件数や内容を全体会議で共有する

  • 改善策を実際に導入し、その成果を職員に伝える

  • 報告者を称賛し、組織として評価する

といった仕組みが有効である。これにより、「自分の行動が組織を前進させている」という実感が強まり、さらなる報告と関与を促すことができる。

エンゲージメントはバーンアウトや心理的安全性と密接に関係しており、医療安全を左右する要因である。リーダーシップの在り方、教育・研修、ワークライフバランスの改善、そして報告制度のフィードバックといった具体的施策を通じて、職員一人ひとりのエンゲージメントを高めることが、組織全体の安全文化を強化する鍵となる。

表:エンゲージメントと医療安全の関係性

エンゲージメントは「従業員のやる気」にとどまらず、医療安全のあらゆる領域に影響を及ぼす。以下の表は、エンゲージメントの高低が医療現場に与える影響を比較したものである。

領域エンゲージメントが高い場合エンゲージメントが低い場合
医療事故防止リスクを早期に発見し、未然防止が進む注意力低下により事故の見落としが増える
チームワーク職種間で積極的な協力と対話が進み、診療方針の一貫性が担保されるサイロ化が進み、情報断絶や誤解が生じやすい
報告文化改善のために積極的に報告し、フィードバックを活用できる報告忌避が常態化し、リスクが潜在化する
職員の健康バーンアウトが減少し、職員満足度や定着率が向上疲弊や離職が増加し、組織力が低下する

この比較からも明らかなように、エンゲージメントは医療安全文化の「推進力」として機能し、逆に低下すればリスクが増幅する「危険信号」となる。

国内外の研究事例

国内の事例

日本の医療機関では、エンゲージメントの高い職場ほどインシデント報告数が多く、重大事故が減少する傾向があることが報告されている(日本医療機能評価機構, 2021)。これは「報告件数が多い=危険」という誤解を払拭し、エンゲージメントの高い組織では潜在的リスクが可視化されやすく、改善が進みやすいことを示すものである。

また、一部の病院では「職員エンゲージメント調査」と「医療安全指標」を同時に追跡し、両者の関連性をモニタリングしている。結果として、エンゲージメントが改善した部署では「転倒・転落」「投薬エラー」などのインシデント率が低下した事例が報告されている。

海外の事例

米国の調査では、エンゲージメントスコアが高い病院は、患者満足度、看護師の定着率、医療安全指標のいずれも良好であることが示されている【Shanafelt et al., 2017】。特に看護師のバーンアウト率が低下し、離職率の低下がそのまま患者安全の向上に直結していることが強調されている。

さらに、英国NHS(国民保健サービス)の研究では、エンゲージメントが高い病院ほど患者の死亡率が低く、スタッフ満足度と安全性の間に強い相関関係が認められた。これは、エンゲージメントが「職員の幸福度」だけでなく「患者のアウトカム」に直結することを示す重要な知見である。

今後の展望

人材育成と組織文化変革

エンゲージメントを高めるには、個人の努力だけでなく組織文化全体の変革が不可欠である。トップマネジメントの関与、リーダーシップ教育、そして現場の小さな改善活動が連動して初めて成果が現れる。

  • トップダウンの方針提示とボトムアップの改善提案を両立させることが重要

  • 中間管理職に「職員の声を聴き、承認する力」を育成する研修を組み込むことが有効

このような取り組みが持続することで、**「働きがいのある職場=安全な職場」**という認識が根づいていく。

デジタル技術の活用

近年、AIやビッグデータを活用して職員の声やストレスを可視化し、早期に介入する試みも始まっている。

  • AI解析:職員アンケートやインシデント報告をAIで自動分類し、エンゲージメント低下の兆候を検出

  • ウェアラブル機器:看護師の疲労度や睡眠の質をモニタリングし、過労によるリスクを予防

  • オンラインプラットフォーム:匿名意見投稿やリアルタイムフィードバックにより、報告文化を補強

こうしたデジタルと人間的ケアを組み合わせることが、次世代の医療安全マネジメントの鍵となる。

政策的支援

厚生労働省が推進する「働き方改革」や「医師の労働時間短縮」政策は、エンゲージメントと医療安全を両立させる基盤になる。長時間労働の是正はエンゲージメント向上の前提条件であり、同時に医療事故防止の観点からも極めて重要である。

今後は、政策レベルでの支援と現場の実践が相互に補完し合い、組織的な働き方改革がエンゲージメント強化→医療安全向上へとつながる好循環を形成することが期待される。

まとめ

エンゲージメントは、単なる従業員満足度ではなく、医療安全を支える中核的要素である。活力・献身・没頭が高い職員は、リスクを早期に発見し、報告文化を強化し、チームワークを深化させる。その結果、患者安全が守られ、組織全体の信頼が高まる。

今後は、

  • リーダーシップ教育

  • 組織文化変革

  • ワークライフバランス改善

  • デジタル技術活用

を組み合わせることで、「高エンゲージメントの医療現場」こそが「安全な医療現場」であるという認識を広げていくことが求められる。

参考文献

  1. Schaufeli, W. B., & Bakker, A. B. (2004). Job demands, job resources, and their relationship with burnout and engagement: A multi-sample study. Journal of Organizational Behavior, 25(3), 293–315.

  2. Maslach, C., & Leiter, M. P. (1997). The truth about burnout: How organizations cause personal stress and what to do about it. Jossey-Bass.

  3. Shanafelt, T. D., et al. (2017). Impact of organizational leadership on physician burnout and satisfaction. Mayo Clinic Proceedings, 92(1), 129–146.

  4. 日本医療機能評価機構. 「医療事故情報収集等事業 年報」, 2021.

  5. 厚生労働省. 「医師の働き方改革に関する検討会」報告書, 2020.

  6. World Health Organization (WHO). Patient Safety: Making health care safer. 2017.

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